(2025/7/14)
「──という単語を聞いたことは」
男が言った。
「ユニバース25……?」
目だけで肯(がえ)んじて見せた男に向け、涼崎が肩をすくめてみせた。
「さてな。新手の住宅ローンか新手のアイドルか。あいにくどちらも縁が無い。……君はどうだ、草薙君」
水を向けられる。
「ちょっと待ってくれないか。昔、何かで資料を読んだおぼえが……」
微かに、記憶があった。
「ずいぶんと古い話じゃないかな。確か、げっ歯類の行動実験か何かだったような気がするんだが……」
「1ポイント先取だ」
男が両手の手のひらを合わせ、ぱちりと一度だけ音を立てた。
「1968年、メリーランド州プールズビル近郊。米国国立精神衛生研究所で行われた試みのひとつで、そうだな。表書きの通り。訳するに――〝楽園実験〟とでも言おうか」
「楽園……実験」
「トーキング・モンキー……いや、ドブネズミどもに文字通り楽園〝ユニバース〟を供与する」
合わせた十指を顔前でゆっくりと開く。それは蓮の花か、あるいは古いSF映画に出てくる甲殻類に似たモンスターのようでもあった。
「256の生活空間と16の巣穴、エサ箱、水を供給する無数のボトルで構成された2.7平方メートルのエデン。理論値では4000弱までを繁殖可能とする、捕食者の存在しない清潔な空間を与え、エサ、水、巣材を無限に供給する。原初のつがい……アダムとイブは四組」
「そいつは景気がいいな。生めよ増やせよ、だ」
「いや、でも確かこの実験は……」
記憶の糸を手繰りつつ、言葉を濁す。あまり、愉快な結末ではなかった筈だ。どちらかといえば……。
「そうだ」
男の薄い唇がうっすらと裂け目をつくる。
「結論から言えば──楽園は滅びた」
視線を涼崎へ向け、男が合わせていた手のひらを離す。
「まずフェーズ1、適応期。4組の雌雄が環境に慣れ、第一子が生まれるまでの100日あまり」
「次にフェーズ2。およそ55日ほどのサイクルで個体数が倍化し続け、やがて600余匹となり社会を形成するに至る。繁殖期」
「社会ねえ」
「社会さ。なんなら国と呼んでもいい」
目を細め、男がうそぶく。
「お前たちの言葉で言う〝国〟とは垣根……〝垣(クネ)〟の音から来ているという説がある。同時にクネ、クニ、クナといった音は囲い込まれた〝土〟の意を含むともな。つまり国とは――壁であり〝境界〟を指す」
境界。マージナル。彼岸と此岸。──あなたと私。
「例えばだ。フェーズ2に至り指数関数的に増えた彼らは、十分なスペースがありそれまでは巣箱やエサ場を適当に選んでいたにも関わらず、やがて不自然に偏りはじめた」
「十五匹ほどが快適に暮らせる上限と想定した巣箱に対し、実に三桁のネズミがひしめき合うようなケースも見られた。そうまでして、つまり垣根を形成した訳だ。ハドリアヌスの壁か、ジェリコかベルリンの壁か。そちらの楽園か──こちらの楽園か」
「当然、大局としては余裕があるにも関わらず、局所的には不均衡が発生する。すると次にどうなるか。特定の小部屋に人口が集中し、空間やメス、エサ、水といった〝富〟に偏在が表われ……結果、社会に〝格差〟が現れはじめるのだ」
今風に言えば〝分断〟だろうか。
「確認されたのは、主に5層からなる階級だ。ひとつはメスを従え管理するAタイプの〝ボス〟ネズミ。そしてそこに挑み、闘争によりよりエサ、メス、縄張りを手にしようとするBタイプの〝普通〟たる一般ネズミども。野性下でも見られる、カースト形成のボリュームゾーンだといえる。興味深いのはここから下だ」
男が、右手の指をゆっくりとそよがせる。
「徐々に目立ち始めたのが性格こそ争いを好まぬものの、発情した際の社会常識……〝まずオスがメスへ求愛し、応えてメスが己の巣にオスを招く〟という基本を解さず、メスどころか同性、あげくの果てには仔ネズミにすら求愛を仕掛ける〝負け組〟のCタイプ」
「そしてやはり性格自体は穏やかだが、より執拗に求愛相手を追いかけ回すストーカーじみたDタイプの〝粘着〟ネズミ」
「またそれらを経て、最後には社会性をすら放棄し、性愛には興味を持たず、独りひっそりと餌を食み孤立を深めゆくEタイプの〝引きこもり〟ネズミたちだった」
「まるで人間だ」
「さて、貴様ら猿の生態にはそう明るくない。どうだろうな」
呟く涼崎の言葉を、ごく自然に、力むべきもなく軽い調子で男が受けた。
「ともあれ、AやBは本来的な社会性を発揮し、自分の巣穴を持ち日常を過ごすが、そこからはみ出たCやDといったネズミたちはやがて決まった巣箱を持つことすらなくなり、中央の広場に集まって寄り添い床で眠り過ごすようになった」
「メスもその格差に準じ、大別してAやBのオスに囲まれ家族をつくる〝家持ち〟と、CやDの間で過ごす〝広場型〟の二種に分かれる」
「Eタイプに至っては言わずもがなだ。他のネズミたちが寝ている時刻を見計らってひとり餌を食み、刻を謳歌する」
「そして315日目以降──フェーズ3。ここから〝楽園〟は停滞期に入ってゆく」
「……」
停滞期。
「まず個体数の倍増期間が55日ごとから145日ごとにまで鈍化した。何故か」
「たぶん、死亡率の悪化だ。……乳児の」
「2ポイントだ。ダブルダウンの権利をやろう」
男が私に片目を瞑って見せた。
「AタイプやBタイプ、それに付き従うメスたちのグループでは当初、出産後も安定し子どもの面倒をよく見るため、乳児の死亡率はおよそ5割に留まっていた」
「一方、広場で過ごすメスが愛情に飢えたネズミ……CやDとの間で成した子の死亡率は9割にも達した」
「親の育児放棄や虐待により大多数が死に、生き延びてもEタイプとなり交流や生殖……およそ社会的な営為には興味を持たぬ個体となり果てるのだ」
そうした個体は通常、野生下では飢えて死ぬ。だが、楽園には飢えや病、天敵といった淘汰圧がない。
「けど、AやBの連中がいるなら問題はないんじゃないのか。健全に家族を営むマジョリティが」
涼崎が言った。
「──当初はな」
男が息を吐いた。
「ある段階でボスによる統治、一般ネズミらによるメスの防衛と縄張りの維持が手に余り始める」
「食料は十分あるにも関わらず闘争は激化し、負けたオス、ストレスから繁殖できなくなったメスなどの孤立、分離が目立ち始め、楽園という樹から枝葉がひとひら、ふたひらと落ちてゆく」
「異性が獲得できないオスは、徐々に性そのものに興味を失って行き、同性愛者が増え、戦わないオスに代わって〝広場〟のメスが戦わざるを得なくなる。やがて彼女らは攻撃性や凶暴性を増し仔を喰らい、育児を放棄し始める」
「出生率が安定しなくなると、その仔は成長してもやはり求愛や闘争、繁殖や保育といった社会相互作用を求めなくなり、ただ只管に自分と向き合って生きるようになる。そうなればあとは早い」
「……」
「草薙君?」
「大丈夫だ。少し……喉が渇いてね」
確かに、まるで人間だ。その話を聞いているだけで喉がひりつくような気がした。
「560日が経過。死亡率が出生率に並ぶ。かくしてユニバースは2200匹を頂点としてゆったりとした黄昏の刻に入る。フェーズ4──終末期だ」
終末期。
男がたっぷりと間をおいて喉を整える。
「600日目、乳児の死亡率が100%に至った。育児の放棄、継承の断絶。産み捨てられ、喰いちぎられ、仔はそのまま死んでゆく」
「然るに、出生が絶えたというよりは〝親が存在しなくなった〟と言うのが正確なところだ。当然、超高齢化が進む」
「920日目。その日の出産を最後に、以後は妊娠自体が途絶える」
「1444日目が経過した時、残ったのは──22匹のオスと100匹のメスだった」
「メスが多くても駄目か……」
「自然界においてという話なら、減少から増加に転じることはままあるそうだけれど。居住空間や食料というリソースが、個体数の減少で回復、解決するからね。けれど……」
楽園には、最初からそれがない。加えて。
「まあ、歳をとりすぎてるよな」
もはや、生む力すら残っていないのだ。
「ある段階で、生き残ったネズミたちは皆がほぼEタイプとなっていたそうだ」
「彼らは争いも、求愛行動すらも起こすことなく、ただエサを食み、水を飲み、毛づくろいをし、心のままに眠った。荒れず、競わず、独り己にのみ向き合って時を過ごす。大いなる無の元、何も為さず死ぬ」
「この実験を編み出した行動学者は──これらのネズミをしてそれを、ビューティフル・ワン。〝美しいもの〟と呼んだ」
「猿にしてはエスプリを効かせたものだ。事実、闘争や生殖に汗することなく生きる彼らの毛並みは、それまでのネズミに比し最も美しかったと記録されている」
「美しい、か……」
それはただ〝汚れていない〟だけの話ではないのか。
「──そして実験開始から約5年。1780日目。最後の一匹が死亡し、かくてユニバースはついに25回目の滅亡を遂げた」
「……ッ!?」
思わず絶句する。ユニバース25。
24。
23。
22。
まさか。
「数字は……試行回数、なのか?」
「……趣味が悪い」
涼崎が呟く。
「だがそいつは……いわゆる、遺伝的多様性ってヤツに欠けるんじゃあないのか。例えば開始4組じゃあ、少ないとか」
「残念だけど涼崎、多分それはないよ」
「何故」
「この手の実験は……あらかじめ長い交配を経て調整を受けたラットやネズミを使うんだよ。奇形や変異といったイレギュラーが起きにくいよう、潜性遺伝子を排除したものを使うんだ」
「なるほどな。素人が思いつく程度のことは当然、考慮済みって訳か……」
「ダブルダウン成功だ」
男が指を立て、私を指差した。
「それに男女ひとつがい、もっと言えば男とその肋骨から地に満ちた貴様らが言えた義理でもあるまい」
「安心しろ。それまでの24回は……そうだな、〝25〟に至る前の準備的な、ごく小規模な試行がほとんどだ。件の失楽はそうした予備実験を経て、5年の歳月をかけた最後の園へと至った訳だ。ただ──ひとつだけ問題がある」
「何だ」
「実験のひとつが、今なお続いている」
「今も、なお……?」
「光あれと──御言葉によって〝クネ〟を得て世界は成った。土くれを囲い、世界から切り分けられ、お前たちはトーキング・モンキーとしての形を得た。そして空気を読まず、御言葉の真意も読まず、読めず、地に満ちた」
「しかし」
男が、それまで鳥の如く膝を抱えしゃがみ込んでいた椅子の背から飛び降りた。背を丸めているとそうは見えないが、こうして見ると上背がある。痩せぎすだが異様な存在感と威圧感とがあった。
「翻ってどうだ、お前たちのエサ箱は。水場は。生殖は。どうだ。──楽園の住み心地は」
「……」
「そろそろ──この実験は。ユニバース0は。終わらせるのが頃合いではないか」
ユニバース・ゼロ。
「だったら──」
「何だ」
「その前に餌と水と……そうだな、家賃を保証して欲しいもんだ。ついでに世のあまねく疾病をなんとかして欲しいね」
涼崎がうそぶく。
「そもそもだ。その実験はとうの昔に終わってる筈だろ。確か、林檎だかイチジクだかを齧りご破算になったとかなんとか」
柑橘類だという説もあった気がするが、黙っておく。
「さにあらずだ。終わっていなかったのさ。なんとなれば、お前たちが未だ──こうしてのうのうと生きている」
男が肩をすくめる。
「俺の唇には終わりを告げる角(ショファル)が触れていないし、奥密なるヘルヴィムの渦巻く炎がまだ貴様らを焼いていない。天を仰ぎ口を開けその喉の奥から漏れ出す断末魔が地に染み広がる様を、トーキング・モンキーどもの世の終わりを、俺はまだ──確認していない」
「……それが望みなのか」
「その先だ」
「先……?」
「──神の愛を、取り戻したいんだ」
つい、口をついた。
男がほんの微かにだけ視線を持ちあげた。それだけで、正誤の答えは要らなかった。
「……」
「草薙君……!?」
「神は人を愛した。それに嫉妬して、天に反旗を翻した者たちがいる。──ずっとその視点で話をしてるみたいだ。この人は」
パチパチと、小さな拍手があたりに響く。5回。次いで口元で叩いていたその両手の人差し指を立て、二挺の銃のように私へと向ける。
「〝おそらくは、そうでしょうね/Most likely〟、〝私が思うには、そうです/As I see it, yes〟、〝どうでしょう。もう一度試してください/Reply hazy try again〟。異教のモンキーにしてはものを知っているらしい。景品にはマジック・エイトボールをやろう」
「それよりも……ひとつ教えてください」
「何だ」
「何故、あなたがあの書を。あれは……第14断章では」