■black ■white +fade ―――もう、朝、か…… ■ev/cg/04_01.jpg +fade 青年は自分が眠っていた周囲を見回した。 昨夜のあの少女の姿は、どこにも無い。 ―――あの娘は、何処に……? もしかして真夜中のあれは、旅枕の泡夢だったのだろうか。 ―――いや、違う。たしかに、あの娘はここに居た。 彼女の肌から立ち昇っていた甘い香りが残り香となって、まだこの小屋の中に漂っているのが、その証だ。 これだけ濃く体臭が残っているからには、つい先程まで彼女もこの小屋に居たはずなのだが、それならば、あの娘は一体、何処に行ってしまったのだろう? ■ev/cg/04_03.jpg +fade 小屋の中をじっくりと眺めてみると、大きな瓶が置いてあった。あの娘と同じ甘い香りが、その桶から漂ってくる。 ―――なんだ、あの娘が実在していると思ったのに、この瓶の香りだったのか…… ―――まさか、この中にあの娘が隠れているなんてことは…… ■black 「触らないで!」 背後から、激しい声が聞こえて、青年は飛び上がった。 見ると、この小屋に泊めてくれた老農夫が小屋の扉を開けていた。 ■ev/cg/04_03.jpg 「その瓶には、触らないでやってください…どうか、後生です……」 「あ、いいえ、すいませんでした、こちらこそ。小屋の中のものを勝手にいじるなと言われていたのに」 「声を荒らげてしまって申し訳ない。山育ちが染み付いた老人ですので無作法はご勘弁下さい。どうぞ……母屋の方で、お食事を用意しましたので、おいで下さい」 「重ね重ねのご好意に感謝いたします」 ■ev/cg/04_04.jpg 一夜の宿を貸してくれただけか、食事まで取らせてくれるなんて…… 路銀に余裕はないが、多少、この老人にお礼を奮発せねばなるまい。 母屋に入ると、竈の前に腰掛けた老婦が、ちょこん、と頭を下げて、無言で挨拶をする。 ■ev/cg/04_05.jpg 彼女が手渡してくれたお椀には、温かな粥がたっぷりと注がれて、湯気を上げていた。 その粥の中に浮かべられた、一つの小さな花びら…… ■ev/cg/03_14.jpg ―――あの娘の匂いだ…… 昨晩、床の中で嗅いだ、あの少女の身体の匂いが、その花から漂う。 ■ev/cg/04_05.jpg 「この花は…?」 「おやおや、どこかから花弁が舞い落ちたようで、申し訳ありませぬ。お代りをよそい直しますので」 「いえいえ、見た目にも鮮やかな花ですし、香りもいい。むしろ、食欲をそそります」 「百日紅ですじゃ。この辺の風習では、婚姻の時などに花嫁の髪に飾るのですわい」 「では、この家でもお祝いが?」 ■ev/cg/03_12.jpg ―――もしや、あの娘が、近々誰かと結婚するのでは……? 青年の心臓が、ちくり、と傷んだ。 そうであって欲しくはない、と、身勝手な思いが頭を過ぎる。 ■black 「ウウッ!」 すると、ワッと老婦が突然泣き崩れた。 慟哭で震えるその肩を、沈痛な表情で老夫が抱きかかえて、落ち着かせようとする。 「……すいません、失礼なことをお聞きしたでしょうか?」 「いえ、いえ……決して、そのようなことでは……貴方さまの所為ではございせん……」 「しかし、お二人のお嘆き様は尋常ではありません。立ち入ったことですが、どうぞ事情をお話ください」 老人は、ふう、と深く息を吐いた。 ■ev/cg/04_06.jpg +fade 「実は、ほんの数日前までは、この家には、この老人二人だけではなく、もう一人、一緒に暮らしていたのです……」 「我が家にも、息子夫婦が残した一粒種が…たった一人の孫娘がおりましたでな……」 「齢も十五になり、なかなかの器量良しに育ちまして――」 「身内の欲目だけではなかったのでしょう、あちこちから縁談の申し出を頂いておりました。ですが――」 「ご結婚のお相手は、もうお決めになったのですか?」 青年が思わずそう尋ねると、老人は、ふう、と深い溜め息をついた。 「我が家はご覧のとおりの荒屋。たった一人の孫娘の持参金さえ持たせてやることが出来ませんでな……婚姻話を進めるのをずっと躊躇っておりまして……」 「私の邦では、花嫁から持参金を頂くことはありません! それどころか、花嫁に支度金をお渡しする事さえありますよ」 つい、勢い込んで青年は口走ってしまった。 だが、老人の顔に刻まれた辛苦の皺々は益々深くなるばかりだった。 「契りを交わす相手が、この世の者では無い相手であっても、貴方はそう仰ることが出来るのでしょうか」 「えっ!?」 ―――この世の者ではない? ■ev/cg/00_03.jpg +fade 「先月の祭り日の出来事でした……運悪く、足を滑らしたのでしょう……あの娘は、ため池の中に一人沈んでおりました……  楽しく華やかであるはずの祭りの日に、まさか、たった一人の孫娘を失うことになろうとは……この老骨二対に背負わせるにはあまりに過酷な天運ではありませぬか。 ■ev/cg/00_02.jpg +fade  何故あの娘の代わりに、この老人二人をあの世に送ってくださらぬか。  この様な人生を歩むと解っていたら、こうして老醜を晒す前にこの身を塵に返しましたものを……天命とは言え、あまりにあまりでございましょう…… ■black  蓄えもないこの荒屋のことで、葬儀もきちんと整えてやれず、墓にも入れてやれぬまま、ただ骸を側に置いて見守ってやるしか出来ませぬ…… ■ev/cg/04_07.jpg +fade  せめて、あの娘が好きだった花一輪でも手向けてやれればと思いながら、百日紅の木が傍にあるあの小屋に亡き骸を安置しております。  ですが、その百日紅も、今はまだ枯れ木……春になり花が咲く頃には、あの子の躯の方が朽ち果てているかと思うと、遣る瀬無さがつのります。 ■ev/cg/03_14.jpg +fade 「お孫さんのお名前は、なんといったのですか?」 ―――もしかして、昨夜の娘が…… 「しび、という名前で呼んでおりました」 ■ev/cg/03_12.jpg ―――やはり、そうだったか! ■ev/cg/04_06.jpg +fade 「私どもは無学で、その名を文字にしてやる事もできませんでした。紙銭に名を記して供養してやる事も叶いません―― 「そのせいであの娘の魂魄が幽世への道を見つけられずに彷徨っているかと思うと、不憫でなりませぬ」 ■ev/cg/03_09.jpg ―――自分が出会ったのは、その成仏できぬ少女の幽鬼であったのか…… あの少女が――暗闇に独りぼっちで泣いているあの娘が、この世界にもう生きてはいない人だった…… ■black 青年は、茫然自失となってその場にへたり込んだ。 あの少女が死んでいたことに驚いたのではない。 彼女が死んでいたことを知って、立っていられないほどの衝撃を受けていることに、青年は自分自身で驚いていた。 科挙の試験に落第しても、俺はこれ程落胆はしないだろう…… ■ev/cg/04_06.jpg +fade どうして……俺はどうして、見ず知らずの村娘の悲劇に、これほどまでに動揺しているのだ――― 「―――悲しんで、下さるのですね。貴方は心優しい方だ……」 青年の嘆き様を訝しみながらも、老人は慰めの言葉をかけてくれた。 そうして、しばらくして落ち着いた頃、老人は意外な提案を切り出してきた。 「あの…誠に、厚かましいお願いでございますが…この老人の頼みを、一つ、聞き届けてはいただけませんでしょうか」 「私にできることなら、何なりと」 「その……孫娘と――― 一夜の契りを結んではいただけませぬか」 ■white 「えっ?」 先程、娘は亡くなったと…… 「実は、この辺りの、風習ですじゃ……」 ■ev/cg/00_01.jpg +fade 「この地方では、若い女が男を知らず死ぬと、魂魄が身体を離れることができず、成仏できぬと信じられておりまして―――」 魂の抜けた骸は、孤鬼、とも、漂鬼とも呼ばれ、夜な夜な男を求めて彷徨い歩くようになる…… 「―――未通女のまま亡くなった娘が出た時は、村の男と仮祝言をあげて一夜を共にさせ、処女を散らした後に埋葬しなくてはならない、とされておるのです」 ■white +fade 聞けば聞くほどに、奇妙な習俗であった。 冥婚、と呼ばれる風習が存在するとは、青年は古い書物で読んだことはあった。 しかし、あれは海を超えた西方の遠国の古い習俗だと記されていたが…… まさか、その奇習が、この地にも残っていたとは――― ■ev/cg/04_06.jpg +fade 「野蛮な風俗だとお笑いになるでしょう……ですが、殿方を愛することも知らずに死んだこの娘を憐れと思ってくださるなら、どうか、どうかお願いいたします」 冗談じゃない、そんな不気味な真似ができるものか―――そう言ってこの場を立ち去るのが普通だな、と思った。そもそも、自分は科挙の試験に間に合うよう、旅路を急がねばならない身なのだ。 ■ev/cg/03_14.jpg +fade ―――そう、その筈なのだが……青年は、この場から立ち去り難かった。 断るべきだ―――理性がそう警告する。 気味が悪い―――倫理観がそう不快感を示す。 しかし、青年の口から出た言葉は――― ■white 「私でお役に立てるなら、喜んで」 ■ev/cg/04_08.jpg あの少女の笑顔が忘れられない。 あの笑顔の続きが見られるなら――― ■white +fade