■black ■white ――しまった……完全に道に迷ってしまった…… 青年が町を外れて、人の気配もしない山道を歩きはじめてから、もう、半日が経っていた。 ■ev/cg/03_01.jpg +fade ―――また、霧が立ち込めてきた……… 先程から、分かれ道に指しかかろうという時になると、何度も霧が立ち込めて、行く先を惑わせるのだ。 ここは今、どの辺りなのだろうか……? 町から、どれくらいの距離、はなれた場所だろう。 途方に暮れて、霧のど真ん中で立ち竦む。 どっちに向かえばいいのだ……せめて、何か人の声とか、物音とか、ほんのちょっとでも手掛かりさえあれば…… ■white +fade 「………おや?」 ■ev/cg/03_03.jpg 白い霧の中に、ふと、花の香りが漂ってきた。 ■white +fade ……待てよ、香りが届いたということは、そちらの方向が風上であるということだ。風下に向かうよりは、風上に向かって進んだほうが、霧が晴れる可能性が高い。 青年は決意すると、微かな花の香りを頼りに、再び歩み始めた。 ■ev/cg/03_01.jpg +fade ■ev/cg/03_02.jpg +fade 花の香りを頼りに歩き始めると、しばらくして霧が薄くなってきた。 ■black +fade 闇の空に、一点の光の輝きが見えた。 ■ev/cg/03_13.jpg 「北斗星だ―――助かった」 あの易者が占ってくれたのは、この事だったのだろうか。 彼が言ったとおり、こうして北斗星に導かれて、文字通りの五里霧中から脱出できたのだ。 狼の遠吠えが、辺りにこだまする。 まずい。この山奥で野宿するのは、かなりの危険がありそうだ。 一刻も早く、今夜の宿を探し出さないと…… ■ev/cg/03_04.jpg 暗がりに目を凝らして遠方を見渡すと、山の斜面に沿って、手入れされた小さな段々畑が目に入った。 あそこまで行けば、畑の近くに農家か、少なくとも物置小屋ぐらいはあるだろう。一夜の宿ならば、なんとかなりそうだ……… ■ev/cg/03_05.jpg たどり着いたその集落は、村と言うにはあまりにも小さく、数軒の粗末な小屋が点在するだけの場所だった。 見回して、ボソボソとした話し声が聞こえてくる家を見つけた。 その小屋の扉を、ほとほとと叩く。 「どなたですか?」 中から声がする。 「夜遅くに、すいません。旅の者ですが、山中で迷ってしまいまして。今夜一晩で結構ですから、泊めていただけないでしょうか」 小屋の扉がすうっと開いた。中には、しょぼくれた老夫婦が、竈を囲んで座っていた。 「それはそれは、お困りでしょう。しかし、御覧の通り、このあばら家では、ワシら二人が寝るのも窮屈でして。それに、その……」 老人は何だか言い難そうにしている。 青年にとっては、とにかくどこかに泊めてもらえないことには、狼がうろうろするこの山中に野宿するはめになってしまう、という焦りが先に立った。 「では、あちらの物置小屋を使わせていただけないでしょうか」 ■ev/cg/03_06.jpg 集落から離れた隅っこに、打ち捨てられたような小屋が目についた。 「あの小屋、ですか……」 「お願いします。狼もうろつき回っていて、このまま山中に放り出されては、明日の朝まで生きては居られないでしょう」 「ムム……そうですな。あの様な場所に、貴方のような方をお泊めするのは、大変心苦しいのですが、事情が事情ですから……ご容赦下さい」 「……小屋の中には、盗まれて困るようなものは入っていませんが、あちこち触らないで。そっとしておいてください」 「もちろんです。中を勝手にいじるような真似は、決していたしません」 「明日、朝になりましたら、様子を伺いに来ますんで」 「ご親切、心より感謝いたします。大変助かりました」 気ぜわしげに老人が家に戻っていく。 一人になって、青年はほっと一息ついた。 ■black +fade 小屋の中に入ってみた。 灯りになるようなものは何も置いてないので、隙間から漏れる月光だけが頼りである。 ■ev/cg/03_07.jpg そんな暗がりであったが、目が慣れてくると、ぼんやりと小屋の中に据え置かれた品々が見えてきた。 鍬や鎌といった農器具、縄や木杭といった品々に混じって、一抱えもありそうな大きな樽が地面に置かれていた。 漬物でも収めておく入れ物だろうか。 耳をすますと、狼の遠吠えも、遠くに離れていった様子だった。 どうやら、これで安心して眠れそうだ…… 道に迷ってからの緊張感が解けて、どっと疲れが吹き出してきた。 猛烈な眠気を感じて、青年は藁束の上に横になると、筵を引き寄せて身体に被せた。 目を閉じると、直ぐに深い眠りがやってきた。 風も止んで、あたりはひっそりと静けさに包まれていた――――。 ■black +fade 夜――― 物音一つ聞こえない、夜。 虫の音も風の音も無い。 ―――これは、夢かな…… 青年は、夢の中に漂っていた……… ―――また、あの甘い香りだ…… ■ev/cg/03_14.jpg 鼻をくすぐる、甘い匂い。 どこかで嗅いだことのある、甘い、花のにおいがする… ■black +fade 「…………………………ウ…………」 「………ウ……ウッ…………」 ―――雨? 夢うつつでその物音を耳にした時、最初は、雨漏りが滴り落ちる物音だろう、と思った。 ■ev/cg/03_08.jpg +fade 「……うう……う……くぅ…………」 ―――泣いている…… 誰かが、泣いている…… ■black +fade 「もしもし…」 呼びかけてみたが、返事はない。 声の主は、相変わらず姿も見せずにしくしくと嗚咽をあげつづけるのみだ。 ―――弱ったな……慰めようにも、相手がこちらに注意を向けてくれなくては。 ■ev/cg/03_07.jpg 青年は、暗闇の中、自分の持ち物を詰めた袋の中を探る。 あった…これを使おう。 取り出したのは、小ぶりの笙だった。 故郷の村で、勉学の合間に気晴らしに、ちょくちょく奏でていたものだ。 青年は、気分の趣くままに、静かに曲を奏で始めた。 ■black +fade 故郷の友人が、こんなことを言っていたな―――女の子を喜ばせるためには花を、楽しませるためには菓子を、慰めるためには音曲を捧げよ、と。 相手が女か男か、あるいは人外の物の怪か、この暗闇では分かりようもないが…… 暗闇の中に、音曲が吸い込まれていく。 ■ev/cg/03_09.jpg +fade 初めは、すすり泣きの声に寄り添うように。 そして、次第にすすり泣きの声をかき消すように。 ■ev/cg/03_10.jpg +fade 青年は、何も考えず、ただ吹いた。泣き声の主を慰めるために。ただ、それだけのために。 ―――泣き止んで…こんな夜に…一人で泣かないで………大丈夫…一人ぼっちじゃないよ……そばにいるよ…君のそばには、僕が居るよ…… ■black +fade 曲が終わったとき、聞こえていたすすり泣きの声は、止んでいた。 ■ev/cg/03_07.jpg ―――良かった…… 相手が泣き止んだ、と思った途端に、青年はまた睡魔に引き込まれていった。 ■white +fade 頭に靄がかかる――昼中散々彷徨った霧深い山道のように……。 その靄の隙間から、人影が見える。 ■ev/cg/03_11.jpg +fade 人影は、小さな少女だった。 ――さっき泣いていたのは、この人か。 行儀よく、青年に向かって礼の姿勢を取っている。 笙の演奏に感謝しているのだろう。 ――あ…… 少女が顔を上げた。 その顔は、昨夜、県令の屋敷に忍び込んできた女の顔と同じだった。 ――夢の中に何度も出てくるとは、これが自分好みの女性像なのだろうか? 自分の好みは、絵に描かれるような洗練された都の貴婦人だと思っていたのだが。 「君の名は?」 彼女は、言葉では答えなかった。 その代わり、柔らかな視線を、扉の向こうに向ける。 ■ev/cg/03_03.jpg 月明かりに、赤い花が照らされている。 夜風に吹かれて、ふわふわと、ゆらゆらと、頼りなく揺れている、百日紅。 紫薇の花――― 「君の名前なんだね、あの花が」 ■ev/cg/03_11.jpg そう聞くと、少女はまた無言で、だが、はっきりと微笑みを浮かべた。 『しび』、というのが、この娘の名前か。 耳に心地好い綺麗な響きだ。若々しく華やかな朱さと言い、漂う甘い香りといい、目の前に居る少女にぴったりと相応しい名前だと思った。 「ねえ、君はこの村に住んでいるのかい?」 ふるふる、と、少女は首を振って、違うと仕草で答える。 「では、この村の人ではないの?」 その問いかけに、またも少女はふるふると首を振る。 「また、会えるかな? どこに行けば、君に逢える?」 少女は、やや困ったように眉根を顰めていたが……。 「ここで、また逢いたい、君と」 ■ev/cg/03_12.jpg +fade 青年がそう言うと、少女の唇がふっと緩んだ。 微かなほほ笑みを浮かべて、会釈するように目を閉じると、少女の姿は夜の闇の中に消えていった―――。 ■black +fade 少女が去った跡には、甘い花の匂いだけが残っていた。 ■black